○旧報恩寺(五百禩神社)
 この報恩寺は古くは禅通寺という禅寺でしたが、伊東氏が飫肥を領するようになって、ここに伊東家功徳院として、かつ祐兵の供養のため、建てられました。
 現在は伊東家廟所となり、累代の墓所となっています。また、左側には藩主の氏にあたって”追腹”を切って殉死した忠臣たちのお墓が、八基ほど並んでいます。その主君はほとんどが二代祐慶公(寛永十三年四月卒去)か三代祐久公(明暦三年十月卒去)です。その中には親の遺言に従って殉死した、米良勘之助(行年 28歳)のお墓もあります。
 また、神社境内には、山手の断崖と湧水を巧みに組み合わせた”桃山式庭園”があります。
 明治初期の廃仏毀釈に伴って、報恩寺も廃寺となりましたが、旧藩臣たちの発起によって、”五百禩(いおし)神社”が建立されました。この社名は日向伊東初代の祐持から二十五代、五百余年、その累代の霊を祀る意味で祐相公が命名したそうです。
 


○照眼寺跡
 伊東氏が飫肥に入封したのち、飫肥伊東家の開祖ともいうべき”三位入道直翁照眼和尚”の功徳を修するために創建したものです。この地には、”西南の役”の戦没者飫肥西郷と呼ばれた”小倉処平”、その他の墓と、それ以降の戦死者たちの忠霊塔も祭られています。

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