○飫肥と西南の役
 飫肥藩士にとって維新に尽くした西郷の実像は大きかったらしく、鹿児島私学校の決起の報が伝わると、飫肥藩士も競って参加を申し出で、その中から精鋭を選んで「飫肥隊」が結成されました。隊の総裁には、信頼の厚かった伊東直記(旧家老)と河崎新五郎(権大参事)の2人が選ばれました。
 飫肥隊は、緒戦の明治十年二月二十五日には早くも熊本の保田窪につき、それ以来薩軍の先鋒として各地に転戦しました。
 これより少し遅れ、一計をたずさえて東京から飫肥へかけ戻った小倉処平は、さらに一隊を募り、薩軍に加わったのは四月初旬でした。
 その頃、転進を続けていた薩軍は隊の再編成を図り、小倉隊は先発飫肥隊と共に新編成の奇兵隊に編入されました。薩軍の戦略家、野村忍介の率いる奇兵隊は、その後、日向、豊後の山深くではげしい山岳戦を続けました。
 史家によると、飫肥隊はつよく結束し、熊本協同隊とならんで最強であり、鮮明な行動をしたと伝えられています。また、豊後三国峠の「西南戦役遺跡碑」にも、「旧飫肥藩士を中心とする薩軍、この峠に防塁を築き政府軍と死闘を尽くす」と銘記されているそうです。
 この西南の役には、経済的にも大きな負担を強いられましたが、飫肥隊の参加千余名、戦死者二百余名といわれ、小倉処平をはじめ多くの英才、好漢を失いました。これは、飫肥の近代化や発展の上に大きな後遺症を残したものとして悔やまれています。
 













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