○泰平踊り
 尺八、三味線、太鼓、歌、踊りで構成されています。大きな朱色の紐のついた折れ編み笠をかぶり、着物、大刀、印籠をつけています。舞の手は武芸十八般を形どっています。
 この踊りがいつごろ始まり、現在の形になったのかは明らかではありませんが、昔の盆踊りから転化したものと考えられています。
 飫肥で町人に盆踊りが許されたのは二代藩主祐慶のころ、寛永四年(1627年)といわれています。また、宝永四年(1707年)洞林公祐実によって武家(十五歳〜三十歳まで)にも許され、三郷踊り(大手・十文字組、永吉・西山寺組、前鶴・楠原組の三郷)となりました。町方は、歌舞伎、大奴、小奴などの踊りに発展し、三郷踊りと共に毎年七月十四日、十五日に総役所や報恩寺などで踊るようになりました。ただ、三郷に対しては、元治元年(1864年)幕末の非常時勢を迎えてから中止を命じられました。
 それ以後は、当初の黒染めの襦袢などの踊り装束や、武骨だったという舞の手も次第に変わり、本町、今町に残された歌舞伎によって、現在の形に引き継がれたものと考えられています。
 現在は、鶴組(今町組)と亀組(本町組)の二流として残り、姿勢の高低差や歌の歌詞(鶴組は船頭調、亀組は藩主をたたえた内容のもの)に違いはありますが、そのリズムはいずれも悠長かつ壮重なものです。


 泰平踊りの歌詞は、南日向の浦々の俗に島回りという情歌で、参勤交代の際の御召関の船歌であったと伝えられ、御代泰平をうたっている。
作曲者は飫肥藩の女人門川加世子という。 <宮崎県の歴史より>
  歌詞はこちら→泰平踊り 歌詞
 













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