○伊東家の家紋はなぜ十曜(丸10こ)なのか
 武家の徽章に五曜、七曜、九曜と呼ばれるものがあり、五曜とは水火木金土の五星で、これに日月を加えて七曜といい、また羅候計都のニ星を加えて九曜という。羅候計都とは龍頭龍尾が黄道と交わるところ東西2个所あって、日月の会するところの名で星の名ではないけれど、陰陽家天象に明らかではないので星とし、七曜に加えて九曜の名がある。
 伊東家の徽章はこの九曜である。今十曜となっているのはなぜかというと、徳川家の制度に(石?)高十万石以下の大名は、一旗限りの合戦(おそらく同じ旗の一族のみの合戦)は許されないというものがあった。十万石以下で一旗限りの合戦を許されているのは、豊後竹田の領主中川家のみである。これはその先祖瀬兵衛が武勇の将であるからで、後世までも一人立ちの合戦を許されたのである。その他はいずれも近隣の大家に付属して軍立ある制度である。伊東家は島津家に付属しなければならなかったが、中古以来讐敵の国なので、細川家の旗下に命ぜられた。そこで細川家の徽章が九曜なので、出陣のとき混乱してはいけないと十曜に改められた、と言い伝えられている。
 安井息軒翁の説として、その証拠には慶長年中、安井相右衛門朝秀に授けられた小指物がある。今の小指物よりは幅が広くて、赤地に金章の九曜である。そこで中古から月星九曜抔であるとし、伊東家の徽章は古来から十曜であると考え、将軍家から申し立てがあったのではない、という説である。
 千葉介常胤の徽章も昔は九曜で十曜ではない。また、伊豆権現の社にも九曜を用いる。寺僧が千葉家の別当の人であった時の徽章であると言い伝えられている。つまり伊豆権現は加茂郡の内にあって、鎌倉以来伊東家の封内であったので、領主の徽章を用いたのである。<参考 日向記>


※上記は『日向纂記』を参考にしています。
明治に書かれたものなので、難しい語や漢字が多くあります。
できるだけ分かりやすくなるよう努めましたが、できなかった部分も多々あります。ご了承下さい。



○飫肥城下大火ノ事
 享保三年戊戌二月二十八日九つ半時分、飫肥城下後町(現在、鯉の放流のある通り)上馬場長倉又兵衛宅より出火したのだが、
激しい西風により瞬く間に近隣に焼け移り、本町(現在の本町通沿い)、後町、牟田町、
鳥居下(大手門を下って最初の交差点を左折した次の交差点あたり)より、北は横馬場(大手門を出てすぐ左折した通り)、
南は前津留(現在の前鶴?)に至り、212戸(士屋敷96戸、本町116戸)焼失して鎮火した。
被害を受けた者たちにはそれぞれ等級に応じ、合力銀と取替銀を賜った。まず家老中には合力として銀20枚、取替銀三貫匁、
馬廻(禄高65石以上、騎馬一頭を持つもの)中には小屋作りの費用にあてるようにと取替銀300匁、小姓には200匁、
徒士には100匁、土器には50匁、足経(軽?)には30匁、小人には25匁ずつ賜った。近習中小姓と会所詰(1名相談中)
北の城介添(可山軒の傅役をいう)には銀3枚〜1枚をあて、それぞれ心づけとして賜った。本町総中には銀100貫匁を十年賦にて
取替えられた。長倉又兵衛は火元なので、わずかの取替えもなかった。
 





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