○振徳堂
 飫肥藩には享和の頃、田ノ上八幡神社下の旧家老伊東勘解由(六百石)の屋敷跡に学問所が置かれていました。天保二年(1831年)藩主祐相公は、この学問所を増改築し、従来の指揮陣に加えて碩学安井滄州、息軒父子を迎えてその充実強化をはかりました。そして、五倫の道を説く「孟子」滕文公篇の「又従而振徳之」の句文から「振徳堂」と名づけました。開設の主旨には「聖賢の教えを守り、忠孝に励み、礼節を尊び、長幼の序を重んじ、文武両道をきたえる」ことが強調されています。
 東西2つの寮をそなえ、多いときには百名余を収容し明治四年まで郷土子弟教育の中心として多くの人材を養成しました。その中には、飫肥西郷とよばれていた小倉処平や明治の大外交官小村寿太郎がいました。
 明治になってからは、郷土学校、小学校、女学校、あるいは警察官教習所や保育園などに使われ、部分的に改修されましたが、主屋や玄関、長屋門など昔のものが残っています。
 昭和五十年飫肥城復元協力会の手によって保存修復に手がつけられ、現状を保つことができています。
 















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