○愛宕山
 愛宕山地帯一帯は、山伏修験僧の本山でした。修験霊場とは考えられないような地帯なのですが、江戸初期から”山伏の里”として霊場の本山となったそうです。
 


○愛宕神社
 愛宕神社は、天正一七年十一月に飫肥藩主伊東祐兵が創建し、当初は五〇メートル程の山頂にあったものが、天保一四年(1843年)に現在地に移されたそうです。
 ご祭神は軻愚突智の命(かぐつちのかみ)で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)の御子です。火の神様として広く知られています。
 本殿正面に畳一畳ほどの大きさの飛天の天狗像の絵馬があります。絵具でかかれているそうです。なぜこの神社に天狗像が飾られているのかは、不明なようです。
 



○稲荷神社
 稲荷神社は延元二年(1337年)、伊東祐持が三財村(西都市)に創建したのが始まりで、その後”岩崎稲荷神社”と呼ばれるようになり、元和四年(1618年)、飫肥に移る際に現在地に移されました。この神社遷座の時の導師は”祐遍和尚”であったそうです。



○祐遍堂
 祐遍和尚は”赤面法印”の名で知られています。その由来に次のエピソードがあります。
 「祐遍和尚は生まれつきの美男子で、彼の姿を見ると町の娘や人妻にいたるまで恋心を寄せ、托鉢の衣の袖を引く始末であったそうです。そこで祐遍は、これでは仏道修行も成り難いとし、ある日ひそかに大釜にお湯を沸かして、煮えたぎる熱湯を頭からかぶり、見るも無惨な顔になってしましました。その後、祐遍とは知らず、その僧を見ると、娘たちや若妻たちはその焼けただれた顔を見て、あざ笑っていました。しかし後日になって、その真相を伝え聞いて女たちは仰天し、なかには自分の浅はかさを恥じ、黒髪をぶっつり切って、仏門に入った女もいた。」そうです。これ以降町の人たちは祐遍を赤面法印と呼ぶようになり、法印もますます修行に専念して学徳すぐれた高僧になりました。
 もうひとつ祐遍堂にまつわるエピソードがあります。祐遍は願成就寺の第五世でしたが、第六世重翁に仏法を授け伝える時、「自分の亡き後は、どこか新山寺の近くに白い煙を立てるから、そこを墓所にしてくれ」と言い残しました。寛永四年(1627年)8月3日、その新山に一条の白煙が上りました。そこで弟子たちは遺言どおり、この地に墓碑を建てました。それが”祐遍堂”です。


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