○旧本丸跡
 飫肥城は東西約七百五十メートル、南北約五百メートルの城域に大小十三の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス大地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形である。
 戦国時代には代々島津家一族が城主であったが、天正十五年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以来、明治時代まで伊東氏の居城となった。
 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。
 このうち、元禄六年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文二年(1662)、延宝八年(1680)、貞享元年(1686)の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。



















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