○生いたち
 小村寿太郎は、安政二年(1855)九月二十六日、飫肥本町と大手門通りとの交差する角の本町別当屋敷に生まれました。小村家の長男で、父は寛、母はムメです。
 小村家は、平氏の出で、平貞盛の弟繁盛より維貞にいたり、その弟忠清は薩州国分の小村の地(現在の鹿児島県霧島市国分広瀬)を与えられ移住しました。その土地の名をとって小村を姓とし、小村備前守貞賢と称しました。その後、子孫の小村太郎左衛門元弘が飫肥に入ったのは今から560年くらい前のことで、元弘から十八代目が寿太郎の父に当たります。
 父は、"徒士席(かちせき)"で禄高十八石というどちらかといえば下級武士でした。
当時の飫肥藩制では、武士の身分は御一門(御三家)家老、給人(きゅうにん)、中小姓(ちゅうこしょう)、徒士席、土器(かわらけ)、筆算、足軽などに分かれていました。
 寿太郎が生まれた"安政"の頃には、飫肥地方も物価が高くなり、お米に代わって現金が物をいう時代になっていました。
 藩から与えられる禄高だけの収入では、一家の生計を支えることが難しく、農業をも片方ではやらねばならない状況だったと伝えられています。
いくら貧乏をしていても士族の体面は保たねばならず、その上弟や妹も生まれ、十一人家族となって、家計のやりくりは大変に苦労が多かったようです。
 この大世帯の家族生活の中で、寿太郎を幼い頃から一番面倒を見てくれたのは、祖母の"お熊ばあさん"だったということです。
 お熊ばあさんは、気性も激しい反面、孫たちへの愛情も非常に深かったようです。特に長男の寿太郎を可愛がり、夜は手枕をして添い寝をし、昔話をしてやったということです。お熊ばあさんは面白おかしく寿太郎に夜話をするのを楽しんで生きがいにしていました。
 また、寿太郎は、生まれた頃に母親が病気であり、もらい乳や飯汁などを乳の代わりにして育てられたので、体は強い方ではなかったと伝えられています。
 そこでお熊ばあさんは、早朝から寿太郎を背中におんぶして、"八幡神社"にお参りを続けたということです。
 初めての男の孫であり、お熊ばあさんは大変可愛がり、期待をかけていたことが分かります。これは、寿太郎が7歳になって振徳堂へ通うようになるまで続いています。
 たとえば、寿太郎を振徳堂に一番乗りさせるために、まだ夜の明けないうちに手を引いて登校させるのが習慣でした。そのため、毎朝2時、3時の夜半に起きて、茶を沸かしたり、顔を洗わせたり、朝食を準備したりして、提灯を下げて振徳堂まで送り、しかと見届けて安心すると初めて家へ帰ったということを寿太郎が述べています。
 家庭は貧乏であったけれども、お熊ばあさんの愛情に包まれて、寿太郎の心は豊かで強いものを植えつけられたことが分かります。
 なお当時の父は別当職で、町の世話や相談をはじめ他国から入り込んでくる商人の手続や応対、その他この地方でとれる物品の取扱い世話などもしていました。
 また寿太郎の生まれた別当屋敷は、いざというときには軍の本陣となったり、藩役所から命じられて外部客の客室になることもありました。全国の測量を行った伊能忠敬が、飫肥で投宿したのもこの小村家別当屋敷でした。
 このようにこの屋敷は商家の一角であり、武家屋敷にも隣り合わせていましたので、屋敷に出入りする人々にも商人があり、武士や役人が入り混じっていたのでした。
 寿太郎が武士の魂と実用の才にも長じていたのは、幼い時代のこの環境が大きく作用したのではないでしょうか。

※日南市・小村寿太郎侯奉賛会 「小村寿太郎 小伝」より
 





飫肥記TOPへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送