○飫肥城
 中世から引継いだ平山城などの城下町(飫肥もこれにあたります)は、城中心の碁盤目型の武家屋敷、商工人町などの外郭となっている周辺部に、寺社集団を配置し、城の防備を一層厳重にしているといわれています。つまり、城と武家屋敷を取り囲んでいる東、西、南、北を主として寺社集団地帯としているのです。
   飫肥城下町も次のように城下周辺に寺社集団が配置されています。
 
(1)南部地帯
 ・愛宕山修験僧地帯 ・愛宕神社 ・稲荷神社 ・祐遍堂
(2)東部地帯
 ・安国寺 ・大龍寺 ・願成就寺 ・広木田大明神
(3)北部地帯
 ・長持寺 ・西山寺 ・永吉馬場 ・大迫寺
(4)西部地帯
 ・報恩寺 ・上城跡 ・八幡原 ・諏訪馬場
 



○いつ誰の時代に飫肥城は築城されたのか
 1458年島津の族將 新納忠続が志布志城から飫肥城へ移った説、南北朝時代土持氏が築城した説等色々あるようですが、どうやらまだ不明なようです。しかし、一乘院僧琳乘申状という古文書に、「水間栄證父子が一乘院領を自分たちの領地だと詐称して、城郭を構え・・・」とあることから、1346年には水間栄證父子が築城した、という説を唱えていらっしゃる方もいました。
 



○連郭式の城郭、十重(とえ)二十重(はたえ)の防備・十余の支城、跡残る城門
・城郭
 本丸を中心に、中ノ丸、西ノ丸、中ノ城、松ノ丸、北ノ丸、松尾、今城、宮藪、小城などの連郭式の城郭で、それが特色でもあったそうです。
・支城(砦)
 @新山城 A中ノ尾砦 B酒谷城 C鎌ヶ倉 D高佐城 E犬ヶ城 F鬼ヶ城 G吾田(縣)城 H南郷城 I新城 J篠ヶ嶺城 K東光寺城 L瀬平城 M水ノ尾城 N岡ノ城などだそうです。
・城門
 大手門、水ノ手門、永吉口門、浄真馬場門、二重木戸門、十文字口門、谷(やつ)ノ口門などだそうです。



○飫肥という地名
 文献の上で”飫肥”という文字が見られる最初のものは、”倭名類聚抄”のようです。これによると、「宮崎郡飫肥郷」と記録され、飫肥の地名が使われています。この記録は承平年間(931年〜938年)に刊行されたもので、”平 将門の乱”が起こったころです。


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