○飫肥藩の廃仏毀釈
 薩摩藩での厳しい一向宗弾圧を逃れた者たちが、隣藩である飫肥藩へきました。ピークは文化、文政年間から天保年間でした。 その頃の調査線上にうかんだだけでも500余人おり、山中への逃走は数千人にものぼるといわれています。
その多くは農民でしたが、農民に姿を変えていた者もいました。逃走は集団で行われ、隣接地である清武方面へ逃れる者もいました。この当時の清武は、中野、本町を中心に飫肥藩の支城として大きな役割を果たしていました。
その頃の藩主は11代祐民、12代祐丕、13代祐相であり、飫肥藩開学の時代でもありました。
学問愛好の風聞は広がり、飫肥、清武の郷は実に平和で住みよく、一向宗寺院もある自由の地として憧れられました。
民の脱走にたまりかねた薩摩藩は天保14(1843)年、逃亡者の送還を依頼しました。そこで飫肥藩は調査に乗り出し、すべて送還したことになってはいるものの、隠れとおしたり、再び脱走してくるものが後を絶ちませんでした。そのため、藩士佐土原記作を鹿児島につかわし、逃走取締り強化を申し入れました。



 日向地誌によると、現在の飫肥と思われる地域にあった寺院のうち現在復興されているものを含め、
13の寺院が廃仏毀釈の被害にあっています。
 板敷
  安国寺、願成就寺、長持寺、大竜寺、本照寺、永慶寺、天徳院、医王院、金剛院
 楠原
  照眼寺、光照寺、空也寺、報恩寺(現在の五百禩神社)



 飫肥藩での廃仏毀釈は明治4(1871)年〜6(1873)年がピークで、廃仏毀釈になった寺院は650ヵ寺以上、
支坊支院も含めると1000ヵ寺をこえました。
 原因は、県役員が鹿児島出身者で占められていたことが挙げられるようです。
(このころは藩から県へ変わっていました。一般にいう廃藩置県は1871年です。)
 

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